おまけ メアリと魔女の花
「メアリと魔女の花」みました。
悲しいかな、メアリのお辞儀はキキそっくりだし、最後のお化けはもののけ姫のディタラボッチ、他にもハウルの動く城のシルクハットだったり風立ちぬの部長そっくりだったり。
どきどきはらはら、切り替わっていく場面、飽きさせない展開を次々行うテンポはよかった。
けれど、映画を見ながら何度も思った。
メアリ、ねぇメアリ。
あなたはどうしたいの?
ペーターはどうしたいの?
ソフィーみたいじゃなくても
キキじゃなくても
いいんだよ
赤毛のかわいい女の子、あなたはだあれって。
呼びかけても答えてくれない。
物語が終わって映画が暗くなってもそれは解決されない。
いい意味でも悪い意味でも、この映画は「無機質」で「どこまでもファンタジー」。
だからこそ、only っていうより、one of のアニメーションにしかなりえない。
私は悲しかった。
こんなにジブリを彷彿させるシーンを入れておいて、比較させるようにわざわざさせて、私たち、比べざるを得ないじゃない。
そうしてこの映画は比べられ、スタジオジブリの最も根底とするものは失われ、表面だけ人々がやれジブリの後継ぎだ第二の魔女だと騒ぐ。
そこまでジブリ作品の何かをいれるなら、それで終わってほしくないじゃないか。
まず、この映画、
「命」感がない。
こちらが助けたら動物は本当に応えてくれる?本当に動物ってそういうものなの?そんな簡単なものなのかな。
それでは都合が良すぎる。
ハイジだって(正式にはこれはジブリではないが)野生の動物に干し草を与えるのに一体何日かかったことだろう、
手ずから食べてくれた喜びは
どんなに大きかっただろう。
その喜びも苦労も何もない。
残ったものは何?
水の校長の姿も雲の中の森も動物も猫もメカもロボットも"人形感""ぬいぐるみ感""マスコット感"がしてしまう。
そこが可愛さでもあるし、しかしそれを無機質にもしてしまう。
「ファンタジー」とは何かを改めて考えたい。
魔法が出てくれば、それは「ファンタジー作品」と言えるのか?虚構があればそれはファンタジーになるのか?
答えは否。
私は、現実を超えるもの、そして超えられないものそれぞれをしっかり描き分けることだと思う。
魔法は都合のいいものではないし、そう感じさせてはいけない、現実と空想を曖昧にしてしまうと、現実を否定してしまうから。
絶望は希望のために、
残酷は美しさを語るために、
そして空想は、
現実のために。
それがない空想は虚構に変わる。
そして虚構は子供の純真な心を破壊する。
「メアリ、
助けたいのなら
火の中でだって駆け寄って、
叫びたいなら叫んで、
泣きたいなら泣いて、
強がりたいなら立ち上がりなさい」
そうした生きる力や現実を肯定させるための空想。
空想のない世界では少しつらい、
この世界で
少し呼吸がしやすくなるように、
少し上を向けるように、
ファンタジーは存在し
アニメーションは存在し、
そうあるべきなのである。
2もののけ姫
天才と呼ばれる所以がよく分かる。
宮崎駿監督、あなたは天才だ。
死と生、混沌と矛盾、憎悪と愛情、破壊と再生の物語。
私たちはアシタカであってサンであってエボシであってジコ坊であってオトキたちでもあるのだ。これは人間の物語。
この作品を理解するためには段階を踏まなければならない、受け手側の思考力によって、段階は変化する。
私が初めてみたのは小学六年生の頃だった。ただただ、私はサンがかわいそうだった。モロやシシ神、乙事主、森がかわいそうだった。
まだその時は人間の複雑な感情を理解することができなかったからであろう。それは生きるためには憎むしかなかったサンと重なる部分がある。
2回目は中学三年生の頃だった。
包帯で被われた長、という人物の言葉にただ気がついたら泣いていた。
ーエボシ様、その若者の力を侮ってはなりません。
お若い方、わしも呪われた身ゆえあなたの怒りや悲しみがよくわかる。分かるが、どうかその人を殺さないでおくれ。その人はわしらを人として扱ってくださったた唯一の人だ。
…生きることは誠に苦しく辛い、世を呪い人を呪いそれでも生きたいおろかなわしに免じて。
ようやく、人間として生きることの深みを思い知る。自分の掲げる正義を貫けなくなり、何が正義か分からなくなっていた時でもあった。エボシの複雑な立場に私は人間を責められなくなった。
3回目はオトキさんの言葉に涙した。
生きてりゃなんとかなる
強い言葉。絶望から諦めないアシタカと重なる、彼女もまたもののけ姫に生ける本当の人間だったのだ。
今。
私は前述したセリフらに何1つ感動できなかった。森と人の共生は言われなくたって大切だし、憎悪の塊があるのが人間だし、様々な方向から見れば敵でも味方でもある。酷い人でもあれば優しい人でもある。そんなこと薄汚れた女性になってしまった私には承知の上であった。人を好きになることも憎むこともできなくなった。
しかし、私は感動した。
監督は人間が好きなのではないだろうか。
それくらい、細やかな人間の動き1つ1つ。彼がこれまで見てきた「人間」の動き表情がここに集結されているようだった。
私たちは生きている。
自分の中では自分が主人公であって、他人は常に他人だ。
この現実世界を表現するには、作者には神なる視点が求められる。「誰かを主人公に決めながら、その周りの人々もそう思いながら生きていること」
これはとても難しいことである。だからか、神なる視点を持たずに物語を描く人はたくさんいる。
だって私たちは夢を見てしまう、自分だけが主人公で、自分だけが特別であること。
しかしこれは真実ではない。
リアリティがない。現実ではない。
現実に何かを訴えるには現実を書かなければならない。
この作品は本当の意味でどこまでも現実であった。それは時に残酷なまで。
村の女たちは意志を持ってエボシについていき、男たちはタタラ場に誇りを持ってそこにいる。ジコ坊の部下も死にたくないが職務を全うしようとしている。強い人ばかりじゃない。逃げ惑う人も死んだ人もいる。
デイダラボッチから逃げる時タタラ場の人たちだけ全員助かるわけでもない。
ジコ坊の部下もほとんど死ぬ。イノシシにやられて死ぬ者もいる。
そこはきちんと、残酷なまで忠実に存在させる。
これは戦争だったのだ、複雑に絡み合う互いの思い(エボシは包帯で巻かれた人の病を助けるためにシシ神を殺したい、ジコ坊はシシ神の首がほしい、タタラ場もほしい、それが彼の任務。侍はタタラ場がほしい)がめちゃくちゃになって、人の命を奪うのだ。
曇りなきまなこで見定め、決める。
アシタカの言葉が頭をよぎる。
そう、見定めるためには、見なければいけない。
その本質を。
目を開け、見ろ、見ろ。
そう言われているような気がした。
アシタカが好きか嫌いか、サンが好きか嫌いか、エボシが好きか嫌いか、見定め決めろと、己に問われる。正解はない。
1 ハウルの動く城
児童文学作品「ハウルの動く城」の世界観を取り込み、自分の伝えたいこととともに混ぜてことことお鍋で煮てみたら、世界で一つの素敵なスープができました。
…表現するならこんな感じでしょうか。
そのスープを作ったシェフはなんて素晴らしい力の持ち主でしょうか。感嘆せざるをえません。
まずはソフィーという女の子。荒地の魔女にお婆ちゃんになってしまう魔法をかけられてしまいます。そこからソフィーの魅力がむくむくと現れてきます。お婆ちゃんになって、それまで可愛くない自分にコンプレックス(可愛いのに、どうしても派手で華やかな妹レティと比べてしまうんでしょうね)があったソフィーにとって、年をとってお婆ちゃんになることはそのコンプレックスから解放されます。だってお婆ちゃんになれば顔の造形などそんなこと、誰も気に留めませんしね。ソフィーの表情も冒頭のどこか厳しい面持ちから一変、笑ったり微笑んだり明るく感情のままの豊かな表情に変わっていきます。しかしカルシファーが言ったこのセリフ、「こんがらがった呪いだね」そう、荒地の魔女の魔法だけでなく、ソフィーはソフィー自身にも魔法をかけてしまったのです。自分は可愛くない、そうした負のコンプレックスは、自分を歪め複雑にします。そうした女の子はたくさんいるんじゃないでしょうか。痩せたい一心で食べられなくなったり、視線が怖くて背中が曲がってしまったり、マスクが手放せなかったり…。それらは魔法よ、ソフィーと同じ、自分で自分にかけてしまった魔法。私は思うんです、優しい女の子たち、魔法にかかる前に戻して、と。
さて、
ソフィーはどうするのでしょうか。
掃除をします。
自分がこうするべきと思ったことや楽しいこと得意なことをするんです。箒を元気に掃いてるソフィーの生き生きとしたこと!そして、窓を開けて美しい景色を見たソフィー。
あれ、背筋が伸びてまるで少女のようなはしゃぎっぷり。
美しいものを美しいと思う素直な心のままでいれば、負の魔法は力を失う。だからありのままでいようね。そんな優しい風の声が聞こえてきます。
さてここで中盤、ハウルの闇が見えてきます。魔法使いでとっても綺麗な男の人。臆病で怖がりで、なのに自分が美しくあることにこだわって…。彼もまた負の魔法にかかっているのかもしれないですね。ハウルもまた、変な髪色になって怒って絶望するけれど、そのせいでハウルにかかった負の魔法も弱くなって、ソフィーにありのままの弱さを言います。そこでソフィーの元気な性格がハウルの力に。魔法使いサリマンの元へ行くソフィー。
階段のシーンはとっても面白い!
荒地の魔女も血の通った人間なのだなぁ、と読者に決して善悪の線を引かせません。
大好き、ジブリ作品のこういう所。だって善と悪に世界を分けたら、自分のことも分けなきゃいけない。私はいい人でいたいもの。でも、いられなかったら、あなたは私を殺すのね。そんな寂しい世界にいたくない。誰だってそうです。
ソフィーの話に戻ります。
サリマンにも臆さず、ソフィーは自分の心に正直な言葉を言います。
「でもあの人は正直よ。自分にまっすぐなだけ。ハウルは来ません。魔法使いにもなりません。悪魔とのことはきっと自分でなんとかします。私はそう信じます!」
あぁ、鳥肌がたちますね。ソフィーの負の魔法が解けた!
でも、そう簡単にはいきません。「恋してるのね」と言われるとソフィーは一気に自信がなくなってしまいます。可愛くない自分が、ハウルに恋だなんて…。
庭のシーンでもこうした魔法と魔法のぶつかり合いが起きます。
「本当のことを言って。私ハウルの力になりたい」、でも、ハウルに綺麗だよと言われても信じられず…。
がんばれ、がんばってソフィー!
お願いだから信じて。あなたなら力になれる。あなたならできるよ。けれど自分でかけた負の魔法は簡単には解けません。だって怖い。負の魔法は傷ついた心を鎧で覆って守ってくれるから…。
けれどソフィーはついに動きます。自分を守ろうとしてくれるハウルを、今度こそ守りたい、と。愛する人のために。もうソフィーは自分を取り戻しました。
見て、灰色の素敵な髪に、慈愛に満ちた潤んだ瞳。
ハウルの心臓を奪った荒地の魔女にも、そのままありのままソフィーで接します。「お願い、お婆ちゃん」と。決して責めず奪わず、ただ伝えます。ハウルは私の大好きな人だから、どうかお願い、と。荒地の魔女もそんなソフィーには優しく、隣国の王子も助けハウルもカルシファーも助けちゃうソフィー。負の魔法から解き放たれた女の子はこんなにも素敵な力を持っていたんですね。なぜこんなにも優しい人たちばかりなのでしょうか。…きっとそれはソフィーの持つ力なのでしょうね。優しくある人には優しくなってしまう。人の性です。
ハウルの動く城はどこまでもハッピーエンドです。戦争も終わる、みんな仲良し。私はここに、どうしてもハッピーエンドに描かなければならないという監督の信念があったのではないかと思います。自分を取り戻して負の魔法から解放されて、でも前の私とはちょっぴり違う素敵さを身につけたソフィー。彼女の得るものはハッピーエンドでなければならない。
あなたも幸せになれるんだよ。
だからほら、自信をもって、ありのままのあなたでいてね。
幸せになろう。
そんなメッセージが伝わってくるようです。
■
アニメーションは、映画でもなければ小説でもない。けれど時には映画のように、主人公の物憂げな、たった一瞬の表情で物事を語り、時には荒々しく人を殴りつけるように紡がれる鋭い言葉で語る。アニメーションは映画と小説、それぞれ良い部分を良いタイミングで効果的に使うことができます。
「映像だけで語るにはあまりに複雑で、言葉だけで語るにはあまりに浅すぎる」
恐らくアニメーションとはそれがあるべき姿なのではないでしょうか。
スタジオジブリ作品にはそういった作品が多くあります。
私がジブリ作品を好むのはそれも理由の一つでしょう。
私はあなたに伝えたい。
私がここから学んだこと再確認したこと、私はこの世でたった一人で、私の気づいたことがたった一つであるならば、私はきっと、価値があるから。