2もののけ姫
天才と呼ばれる所以がよく分かる。
宮崎駿監督、あなたは天才だ。
死と生、混沌と矛盾、憎悪と愛情、破壊と再生の物語。
私たちはアシタカであってサンであってエボシであってジコ坊であってオトキたちでもあるのだ。これは人間の物語。
この作品を理解するためには段階を踏まなければならない、受け手側の思考力によって、段階は変化する。
私が初めてみたのは小学六年生の頃だった。ただただ、私はサンがかわいそうだった。モロやシシ神、乙事主、森がかわいそうだった。
まだその時は人間の複雑な感情を理解することができなかったからであろう。それは生きるためには憎むしかなかったサンと重なる部分がある。
2回目は中学三年生の頃だった。
包帯で被われた長、という人物の言葉にただ気がついたら泣いていた。
ーエボシ様、その若者の力を侮ってはなりません。
お若い方、わしも呪われた身ゆえあなたの怒りや悲しみがよくわかる。分かるが、どうかその人を殺さないでおくれ。その人はわしらを人として扱ってくださったた唯一の人だ。
…生きることは誠に苦しく辛い、世を呪い人を呪いそれでも生きたいおろかなわしに免じて。
ようやく、人間として生きることの深みを思い知る。自分の掲げる正義を貫けなくなり、何が正義か分からなくなっていた時でもあった。エボシの複雑な立場に私は人間を責められなくなった。
3回目はオトキさんの言葉に涙した。
生きてりゃなんとかなる
強い言葉。絶望から諦めないアシタカと重なる、彼女もまたもののけ姫に生ける本当の人間だったのだ。
今。
私は前述したセリフらに何1つ感動できなかった。森と人の共生は言われなくたって大切だし、憎悪の塊があるのが人間だし、様々な方向から見れば敵でも味方でもある。酷い人でもあれば優しい人でもある。そんなこと薄汚れた女性になってしまった私には承知の上であった。人を好きになることも憎むこともできなくなった。
しかし、私は感動した。
監督は人間が好きなのではないだろうか。
それくらい、細やかな人間の動き1つ1つ。彼がこれまで見てきた「人間」の動き表情がここに集結されているようだった。
私たちは生きている。
自分の中では自分が主人公であって、他人は常に他人だ。
この現実世界を表現するには、作者には神なる視点が求められる。「誰かを主人公に決めながら、その周りの人々もそう思いながら生きていること」
これはとても難しいことである。だからか、神なる視点を持たずに物語を描く人はたくさんいる。
だって私たちは夢を見てしまう、自分だけが主人公で、自分だけが特別であること。
しかしこれは真実ではない。
リアリティがない。現実ではない。
現実に何かを訴えるには現実を書かなければならない。
この作品は本当の意味でどこまでも現実であった。それは時に残酷なまで。
村の女たちは意志を持ってエボシについていき、男たちはタタラ場に誇りを持ってそこにいる。ジコ坊の部下も死にたくないが職務を全うしようとしている。強い人ばかりじゃない。逃げ惑う人も死んだ人もいる。
デイダラボッチから逃げる時タタラ場の人たちだけ全員助かるわけでもない。
ジコ坊の部下もほとんど死ぬ。イノシシにやられて死ぬ者もいる。
そこはきちんと、残酷なまで忠実に存在させる。
これは戦争だったのだ、複雑に絡み合う互いの思い(エボシは包帯で巻かれた人の病を助けるためにシシ神を殺したい、ジコ坊はシシ神の首がほしい、タタラ場もほしい、それが彼の任務。侍はタタラ場がほしい)がめちゃくちゃになって、人の命を奪うのだ。
曇りなきまなこで見定め、決める。
アシタカの言葉が頭をよぎる。
そう、見定めるためには、見なければいけない。
その本質を。
目を開け、見ろ、見ろ。
そう言われているような気がした。
アシタカが好きか嫌いか、サンが好きか嫌いか、エボシが好きか嫌いか、見定め決めろと、己に問われる。正解はない。